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「あなた」の人生の物語 |『プラータナー:憑依のポートレート』バンコク公演レビュー(2018/8/28 島貫泰介)

「あなた」の人生の物語

長い長い物語は、水辺から始まり水辺で終わる。2016年のプールサイドから1992年の川べりへと移りゆく前者と、16年10月13日のチャオプラヤー川に架かるラーマ8世橋が舞台の後者。『プラータナー:憑依のポートレート』は、この約四半世紀の隔たりを約4時間かけて描くが、始まりと終わりに登場する、恋人同士あるいは師弟のような2組のカップルを演じるのはまったく同一の俳優2名である。つまりこの2つのシーンには、本作の基調としての「循環性」が強くイメージされている。そして4時間をかけて観客が体験するのは、幾度もの循環を経た主人公=カオシンと、彼が生まれ育った国そのものの変化だ。
この変化は、決して望ましい変化とは言えないかもしれない。だが、その循環から逃れることも、(いくつかの悲劇的な方法を除いて)おそらく誰にもできない。『プラータナー』は、そんな物語だ。

岡田利規の最新作である本作は、彼のこれまでのキャリアにおいて、いくつかの点で例外的な仕上がりになっている。上演時間の長さについてはすでに述べたとおり。ウティット・ヘーマムーンの自伝的小説『欲望の輪郭(小説原題)』を原作としていること。タイでの初めてのクリエーションであることも加えていいだろう。しかしながら、やはり特筆すべきは以下の点である。
11人のタイの俳優陣に加え、セノグラフィー(状況や場や景を視覚や聴覚といった知覚を通して色や形、空間的に把握すること*)を担当した塚原悠也とセノグラフィーアシスタント・映像の松見拓也(ともにcontact Gonzo)、音響デザインの荒木優光、衣装の藤谷香子、照明デザインのポーンパン・アーラヤウィーラシット、演出助手のウィチャヤ・アータマート、舞台監督の大田和司らクリエイティブチームの全員が、あたかも俳優のように上演に関与することだ。技術ブースは客席から剥き出しで、散乱した舞台美術を移動させたり衣装を着替えるために、俳優とスタッフはコーラ(Chora)としてのプレイグラウンドを激しく往来する。
総勢20名弱がてんでばらばらに動き回る風景は、これまでの岡田作品では見られなかったものだ。おおむね2〜4人の俳優を軸として、観客に極度の集中力を求めるここ数年の演出と比較して、本作はある種の散漫さを意識している。これに近いのは金氏徹平を舞台美術に起用した『わかったさんのクッキー』(2016年初演)だが、同作が非生物である日用品を想像力の駆動装置に見立てたのに対し、『プラータナー』は俳優やスタッフの身体や身振りも想像力のための「美術」として扱う。もちろん生身の人間を完全に制御することは不可能だし、4時間に及ぶ上演は俳優たちを疲れさせ、慎重さを奪う。だが、それによってもたらされる冗長さや散漫さは、ブラックボックスの空間を過密都市バンコクのストリート=路上に変えていく。

ストリートのイメージは、20世紀前半からタイで頻発してきた市民運動と、それを鎮圧するための軍隊によるクーデタを、バンコクの観客に想起させただろう。1932年の立憲革命以来、タイではおよそ10年に一度の頻度でクーデタが発生してきた。特に実業界出身のタックシン・チナワットが首相となり、その急進的な行政・経済改革に対する反発から退陣に追い込まれた2006年のクーデタ以降は、彼を指示する赤シャツ「タックシン派」と、黄シャツ「王党派」の対立を主とした抗争が激化。泥沼の政争を経た14年には、陸軍司令官プラユット・チャンオーチャー(現首相)率いる国家平和秩序維持評議会がタイ全土に戒厳令を発令、憲法を停止して全権を握ることに成功し、現在に至っている。これらのクーデタと市民運動の現場の大半はバンコクのストリートであり、『プラータナー』の上演会場であるチュラロンコーン大学のやや北に位置する超巨大ショッピングモール・サイアム前のラーマ1世通りで、10年に実行された大規模な鎮圧の記憶はバンコク市民の心にいまも生々しく刻まれている。
本作では、92年の「暴虐の5月事件」、タックシンを追放した06年のクーデタ、バンコク中心部で100人近い死者を出した10年の武力鎮圧、そして14年のクーデタが強調される。社会の変化を望む熱情に溢れたストリートにおいて、人は個人としての「私」が集団としての「私たち」に包含される感覚を味わう。そのある種の全能感(そして期待が叶わなかったときの諦観)を知っているのは、タイ人に限らない。例えば日本でそのことが特に再認識されたのは、11年の東日本大震災以降だ。反安倍政権、反原子力開発、反戦、反マイノリティー差別など参加する人々が抱くさまざまな意志は数万人単位のうねりとなって、量的な運動を生み出している。


振り返ってみると、震災以降の岡田利規は一貫して「私たち」を描いてきたと言えるかもしれない。容易に交わることのない「私」「私」「私」の離散的なありようが震災前の彼の主題だったとすれば、とある地方の村で暮らす女性たちを描いた『現在地』(2012年)、コンビニという閉鎖的な場所に根付く信仰を描いた『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』(2014年)などは、ある文化・社会的基盤を共有する「私たち」の顛末に関心を寄せるものだった。その創作の傾向は、震災以降の日本でしきりに語られるようになった絆やコミュニティーの必要性、盆踊りや伝統芸能といった古代に起源を持つ文化・習慣への関心とも批判的にリンクするものであったろう。だが、今回の『プラータナー』からは「私たち」というフレームが入念に回避されている。これはきわめて重大な変化のように思われる。
自伝的小説が原作であるにもかかわらず、本作で多用される主語は「僕」や「私」ではなく「あなた」だ。物語の中にだけ存在する語り手を俳優の一人が演じ、主人公に相当する俳優を「あなた」と名指すとき、例えばこんなシーンができあがる。

2001 年のあなたがどんなだったかおぼえてるか? タックシン・チナワット首相が誕生し、この国の新たな養父となった頃のあなたが。政権がIMFからの支援融資を繰り上げ完済し、国民皆健康保険制度、三〇バーツ医療制度を誕生させた頃のあなたが。
その頃のあなたには、野蛮が取り憑いていた。
あなたは映画のスクリプターを務めるようになっていた。撮影現場において、シーンとシーンのつながりを確認する、監督のもうひとつの目。演出助手の座は、ニューヨークの映画学校を卒業したばかりの女性に遮られた。裕福な家庭の「帰国子女」。みなが彼女のことをファー(空)と呼んだ。

(第2幕第1場冒頭より)

この後、上演は主人公のカオシンとファーの対話パートへと続いていく。本作において、発話する俳優、それに応じる俳優はシーンごとに厳密に決められているが、「あなた」という言葉が指差す対象は明確に定められていないように見える(もちろん、意図的にそのように設計されている)。俳優は、舞台上のさまざまな場所に陣取った10数名の俳優・スタッフに向かって個別に発話するのではなく、まるで雲や息を口から吐いて空間に漂わせるような曖昧さを常に抱えながら喋り続ける。日本人にとっては耳慣れないタイ語の響きが漠然とした印象を強めるのかもしれないが、小型マイクや移動式のスピーカーに切り替えて成されることもある発話は、そのセリフを発している主体=すなわち「私」の所在を、しばしば観客から見失わせる。
このような複雑な空間・音響的演出によって、4時間に及ぶ『プラータナー』の上演は、自分探しの長い旅へと変わっていくのかもしれない。曖昧な「私」のアイデンティティーと居場所を求めて、カオシンはバンコクを漂流する。しかし何者かから「あなた」と措定されればされるほど、カオシンは「私」をかたどる輪郭を消失していく。かといって、バンコクを覆う熱狂的な「私たち」の運動に合流・同化することにも彼は耐えられない。美大生でもあった彼にできるのは、自画像を描くようにして「私」を「あなた」として対象化し、スケッチすることだけなのだ。
ちなみに原作者のヘーマムーンによると、原著『欲望の輪郭』の「輪郭(rang)」とはタイ語で「スケッチ/落書き」や「身体」という意味なのだという。そして後者は、魂のない容器としての「身体・屍体(body)」も含んでいるという。


いくつかのクーデタ。いくつかの幸せな恋愛と悲しい別れ。ベルトコンベアーのようなDIYの舞台美術。
それらも『プラータナー』の循環性を印象付ける重要な要素だが、「あなた」による対象化によってかたちづくられる「私」とも響きあう場面について、最後に書いておきたい。タイ公演でも特に好評だった高校時代のシーンだ。筆者は「タイの男子高校生も似たようなドリームを持つことがあるのだなあ……」と感慨深く受けとめたのだが、この馬鹿げた行為がやがて自室や宇宙をも超えて涅槃・解脱へと至るシーンだけが、本作において唯一の絶対的な幸福を描いているようにも感じる。自分の尻尾をたいらげてやがて消えてしまう蛇のように、このときのカオシンは、自分の欲望、生の必要、死の必然について、自分以外のいかなる存在も必要としていないからだ。
始まりのシーンをなぞるようにして終わりを迎えるカオシンの物語は、たしかに螺旋的な循環運動に喩えることができる。だが、2016年10月13日の彼は、若き日の彼とはまるで別人になってしまっている。「あなた」は、人間は常に進歩し、社会はよき方向へと向かっていくという上昇する進歩史観の螺旋のなかで、ひどい傷を負い、心身を擦りへらせている。それは間違いなく、カオシンのみならず、現在のバンコクに生きる、ある人々が直面する状況でもあるだろう。そしてまた、現在の日本に生きる人々も、共通した感覚を作品から感じ取ることができるはずだ。『プラータナー』は、「あなた」の人生の物語なのだ。

テキスト:島貫泰介

*引用元:杉山至「セノグラフィーってなに?<歴史1>」